旅行記

チベットの旅

 1886年初めて中国を訪れた時、私のチベットについての知識はとても乏しかった。86年という年は中国がチベットを外国人旅行者に 「解放」して間のない年だった。中国自体、個人で行くというのが日本ではマイナーな時代、「チベットにフリーで行く」と言えば、日本人に限らず、中国人さ えも「そんな、行けるはずないよ」という答えが返ってきた。だが、この85〜87年くらいの間は信じられない位、簡単に成都〜ラサ間の航空券が個人で買う ことが出来た(現在は旅行社を通さなければ買えない)

 86年に上海でチベット人を見かけた私はその迫力に圧倒され、感動した。「次は絶対、チベット!」と、固く私に誓わせたのは、かの鑑 真号(上海〜神戸or大阪、2泊3日のフェリィー)の船の上。私と同じように知識もことばも持ち合わせも少ないバック・パッカーが、難なくチベット入りを 果たし、そういう人々が船の上には犇めいていた。かの人々は充分すぎるほど私の背中を押してくれたのだった。

 87年に1週間だけラサに滞在して、ゴルムトを越えて新彊ウイグル自治区 へ旅をした。初めてイスラム文化圏を体験してそれなりに楽しかったが、ラサで過ごした一週間は忘れられない想い出となった。パルコル(ジョカン寺の門前 街)の露店は楽しく、毎日行っても飽きなかった。が、丁度モンラム大祭の日程と重なり、街は特異な緊張感に満ちていた。当時からチベット仏教徒と中国政府 の間にはいつも火種が尽きず、その大きな仏教行事が、暴動にも繋がりかねないと考えたケイサツと市民との間には張りつめた空気が漂っていたのだ。それは、 外国人である私たち旅行者にも伝わった。祭りは暴動にはならなかったが、人々が着飾ってなかったら、暴動にしか見えなかったかも知れない。ジョカン寺に集 まる大勢の僧侶たち、祭りの中心には踊りの輪もあったが、とにかく人、人、なんにも見えない。そのうちチベット人達は、お寺のまわりをコルラ(右回りでお 寺やお堂をまわる参拝の仕方)し始めた。あちこちにいたケイサツがどこか不審なヤツをコンボウでこづいていた。長旅で薄汚れ、何処の国の人か判別できない 日本人なんかも、撲たれそうになっていた。コルラの波は太い縄のように見えた。

 87年には、政治的な理由であっという間にラサの門は閉ざされた。「秘境」に逆戻りしたのである。来年はもっとゆっくりチベットへ、 なんて考えていた私はボーゼンとした。その時、恩師が「インドにもチベット人はいる」と曰われたので、「そうか」と学校をスッポカシテ、インドに行ってし まった。が、インドはそんなに甘くなかった。うだるような暑さと女と見れば寄ってくるインド人を押し分けながら、とにかくチベット文化圏を廻っていった。 そのうち、ラダックという北インドにあるチベット文化圏を意識するようになった。歩きながらインドにも少し慣れてきた頃だった。2度目のインドでラダック に辿り着いた。ようやく腰を据えてスケッチが出来るようになったのは、90年のこのラダック滞在からだった。それまでは移動だけで精一杯、メモのようなス ケッチばかりが残っている。

 ラダックのおだやかな空気と土地の人々のやさしい人柄は、旅でゆっくり 歩くことと描くことの楽しさを教えてくれた。92年には3ヶ月ほど滞在し、チャムというチベット独特の僧侶によるマスク・ダンスのお祭りを堪能した。94 年にはチベットをライフ・ワークにしている友人のカメラマンから、中央チベット入境緩和の情報をもらい、再びラサ入り。ウ・ザァンと呼ばれる地域を旅し た。それから、ほぼ2年おきにチベット文化圏を旅するようになり、アムド、カム(青海省、甘粛省、四川省辺りに分布しているチベット文化圏)にも脚をのば した。

 旅をしながら、絵を描きながらチベットのことを学んできた。勉強不足は否めないが、本で読んだ前知識で頭をいっぱいにしていたら、ナ マでチベットを感じることが出来なかったかも知れない。歩いたぶんだけ、チベットのことが自分に近くなってくる。そんな感じが自然で、私には心地よい。

 チベット、ちょっと神秘的で、時には厳しい顔をみせるけれど、そのやさしい笑顔にはまってしまった人は、私ひとりではあるまい。

 これからも、私の見つけたこの大事な美しい「友人」と親しくなっていきたい。そう、歩くような早さで. . . .

2003年4月 ある晴れた日に 竹内淳子